大阪高等裁判所 昭和53年(ネ)1379号 判決 1982年8月18日
控訴人(被告) 社団法人全日本検数協会
被控訴人(原告) 北戸義信 外二五名
主文
原判決を取消す。
被控訴人らの請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。
事実
控訴人は主文同旨の判決を求め、被控訴人は「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」との判決を求めた。
当事者双方の主張は、当審において控訴人が別紙第一のとおり、被控訴人らが別紙第二のとおり主張するほか、原判決事実の「第二 当事者の主張」に記載のとおりであり、当事者双方の立証は、次に記載するほか原判決事実の「第三 証拠関係」記載のとおりであるから、いずれもこれを引用する。
(証拠省略)
理由
一 請求原因1の事実は当事者間に争いがなく、同2の事実中、被控訴人らが原判決添付別表二の△印記載の日に組合欠勤し、控訴人が右欠勤一日につき月額賃金の二五分の一の割合で、被控訴人らの賃金から右欠勤日数に応じて控除(二五分の一カツト)したことも当事者間に争いがない。
二 成立に争いのない甲第六六、第六七号証、乙第二四、第二五号証、原本の存在及び成立とも争いのない甲第九〇号証、第九九号証の一ないし六、七の一、八ないし一〇及び弁論の全趣旨によると、控訴人と被控訴人らとの間の労働契約では、基準内賃金(本給、役付手当、家族手当)が一月を単位として定められているが、欠勤の場合は、欠勤者が理由を付して届出をしていた場合(届出欠勤)を除き、一日につき右基準内賃金(ただし昭和四八年四月一日以降は家族手当を除く)の二五分の一を減額(二五分の一カツト)することになつていたことが認められる。従つて右の届出欠勤とは異なる組合欠勤に対する賃金減額のカツト率が届出欠勤と同率の五〇分の一カツトにとどめられるべきであるというためには、労使間にその旨の賃金協定や慣行(及びこれに従う旨の当事者の意思。以下同じ。)が存在することを要するものというべきところ、前記のとおり家族手当を賃金カツトの対象から除外したことのほかにはその旨の賃金協定は存在せず、被控訴人らはその旨の労使の慣行が存在する旨主張するので、以下右労使の慣行について検討する。
三 労使間の事実経過
成立に争いのない甲第二、第六、第一三、第一六、第一七、第一九、第二六、第二七、第二九号証、第四三号証の一、乙第一号証、第五号証の一ないし一二二七(ただし一一五五、一一七五、一一七六は欠番)、第六号証の一・二、第一四号証の一ないし一二、第一七、第一八、第二〇、第二六、第二七、第五四、第五五号証、第六二号証の三・四、第六三、第六五ないし第六七、第七四号証、原本の存在及びその成立に争いのない甲第七一号証の一ないし三、乙第五八、第六一号証、原審証人岸本平八(第一回)の証言により成立の認められる乙第九号証、当審証人中西弘の証言により成立の認められる乙第五六号証、同証言により原本の存在及びその成立の認められる乙第五九、第六〇号証、弁論の全趣旨により成立の認められる乙第一三号証の一ないし一二、第四八ないし第五〇号証、原審証人木村賢一、同河合仁、原審(第一、二回)及び当審証人岸本平八、当審証人中西弘、同前川嘉男の各証言、原審及び当審における被控訴人後藤英二、同北戸義信各本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を総合すると以下の事実が認められる。
(協会の成立と就業規則の制定、労働協約の締結)
控訴人(協会)は、昭和三〇年一〇月から同三二年四月にかけて全国各地の検数株式会社一九社を合併・統合して設立された社団法人であるが、統合前の各企業における労働条件及び就業時間中の組合活動に関する取扱いが区々であつたので、これを全国的に統一する必要から、昭和三三年四月一日全国統一の就業規則を作成し、また当時統合前各企業の労働組合を統合して結成された全国単一組織である全日本検数労働組合との間で同年九月二五日「就業時間中の組合活動に関する取扱」と題する協定(労働協約)を締結した(右就業規則が作成されたこと及び右協定が締結されたことは当事者間に争いがない。)
右就業規則二三条には「就業時間中に組合運動、政治運動、示威運動、集会その他協会の業務に関係のない事由で就業しない時はこれを欠勤、遅刻又は早退として取扱う。但し、不当労働行為となるものを除き労働組合と協定した場合はその協定による。」と規定され、同規則附属規定七条には「無届にて欠勤又は休務した場合は一日に付各人の月額制の基準内賃金(本給、家族手当、役付手当)の二五分の一を減額する。理由を付して届出て欠勤又は休務した場合には各人の月額の基準内賃金の五〇分の一を減額するものとする。」と規定され、前記協定には次の条項が定められた(以上は当事者間に争いがない。)。
(1) 執行委員会等の各種委員会は、正規執行委員会をもつて原則として一か月三回を超えない範囲で行い、事前に作業担当次長、課長、所長と協議の上出来得る限り作業に支障のない時期及び方法をとることとし、前日迄に支部長に届出るものとする。
(2) 拡大執行委員会、評議員会、代議員会、その他これに類する会議は出来得る限り回数を月一回以内に止め、作業担当次長、課・所長と協議の上作業に支障のない時期及び方法をとり、原則として三日前迄に支部長に願出でるものとする。
(3) 上部団体及び友誼団体の会議出席は人員と回数を最少限度に止めその都度所属長を経て前日迄に支部長に願出でるものとする。
(4) 右(1)、(2)、(3)の場合を待機扱とする。但し(1)、(2)、(3)を通じて一人一ケ月の回数を協議の上支部に於て定めることができる。
(5) 支部定期大会は、年一回に限り作業に支障のない時期及び方法をとり予め協会の承認を得た場合に限り待機扱とする。
(6) 中央委員会、中央大会出席は予め協会に願出で許可を得た場合に限り原則として左表<省略>に示す日数以内の所要日数を待機扱とする。但し中央委員会は原則として月一回、中央大会は年一回とする。
(7) 団体交渉出席については出勤扱とするが続行手当等の時間外手当は原則として支給しない。
(昭和三六年までの実情)
大阪支部の組合(分会)は右協定に従い分会長名で、分会員が就業時間中に組合活動に従事する場合には、その氏名、組合活動の内容、日時、場所を明示し、同支部長宛に右分会員の配置の便宜を計られるよう文書で事前に届出(以下これを分会の届出という。)をし(この点は当事者間に争いがない。)、この場合には、昭和三六年末頃までは、特に問題とすることなくすべて待機扱いとして賃金を保障する取扱がなされ、右協定で定められた範囲外の組合活動についても同様の措置がとられた。
(便宜供与の背景と背景事情の変化)
右のような協定がなされ、実際上右のような大幅な便宜供与がなされたのは、その当時は港湾設備や港湾事業の近代化が進んでおらず、協会の業務も生産性の低い前近代的な段階にあつて、船舶の入港情報も不確実で荷役について計画性がなく、検数業務の需要の波動性が著しかつた結果協会があり余る程の待機時間、待機人員を抱えており、右のような便宜供与を行うことが極めて容易であつたことが重要な背景事情となつていた。
ところが、日本経済が昭和三〇年代後半から高度成長時代に入り、貿易の拡大に伴い港湾施設が整備され、港湾荷役量が増大した結果、協会の業務も著しく繁忙となり、事業の近代化、合理化が進められて待機時間、待機人員が少なくなつてきたのに対し、他方ではその頃から組合側も活発な活動を始め、就業時間中における組合活動も多くなつたため、遂に同分会の届出に対し協会として配置の便宜を計りかねる場合も出て来るようになつたが、従前の便宜供与に慣れた組合は、届出さえすれば組合活動は常に待機扱いとして取扱われ、賃金が保障されるのが当然であるかのように錯覚し、また就業時間中であつても組合活動は協会の意向による制肘を受けず、分会の自主的判断に立つて自由に行ないうるかのように考え、協会が配置の便宜が計れないから就業せよと命じても、当該分会員はこれを無視して欠勤のうえ組合活動を行ない、協会の業務の遂行に支障を及ぼす事態が生ずるに至つた。また昭和三四年三月に前記全日本検数労働組合が解散し、協会各支部単位の組合組織となり、組合役員の数が各組合で独自に決定されたことから役員数も増大し、待機扱いを求める人員が増大したことも右の事態の発生に拍車をかけ、協定締結当時の実情と大きく変化して来た。
(大阪地方労働委員会の勧告と協定の失効)
昭和三四年の年末一時金争議における大阪支部の紛争が大阪地労委に係属した際、その審理過程において、就業時間中の組合活動に対する便宜供与が無制限に行なわれている実態が明らかになり、審査委員から、右協定や取扱いが結果的には労組法が禁止する労働組合に対する経費援助になり不当である旨指摘され、翌三五年七月五日「使用者は業務の特殊性に鑑み、申立人(組合)が予め届出をし、使用者の承認を得た場合に限り、申立人組合員の待機中の組合活動を認め、一方同組合員は、待機中の組合活動中においても使用者の業務上の指揮、命令に従うこと。」とする趣旨の勧告があり、当事者双方ともこれを受け容れた(地労委勧告があり労使双方がこれを受け容れたことは当事者間に争いがない。)。
これを受けて協会は協定の改訂作業に入り、昭和三五年八月三一日前記協定を同年一一月二九日限り破棄する旨各支部の組合に通告するとともに、その代案を同年九月一六日の中央経営協議会において組合に提示した。右代案(「就業時間中の組合活動について―組合活動に関する協定(案)」)の骨子は、組合活動はすべて就業時間外に行なうことを原則とするが、作業の特殊性もあつて一定の範囲のもので所定の承認手続を経たものは就業時間中も認める、しかし賃金の取扱いについては、控訴人が特に認めたものについては控除減額しないが、それ以外の就業時間中の組合活動については賃金を支給しない、届出による組合欠勤は労働条件決定には欠勤扱いとせず不利益な取扱いをしないというものであつたが、分会の了解がえられなかつた(控訴人が代案を提案したが分会の了解がえられなかつたことは当事者間に争いがない。)。その結果、前記協定は同年一一月二九日限りで失効し、ここに労使は無協約状態になつたので、控訴人は同日全国各支部長に対し「就業時間中の組合活動の取扱基準」を通達したが、その内容は右代案を基本とするものであり、控訴人としては待機時間を利用して組合活動をなすことは許容するものの、仕事が忙しい時は就業時間中の組合活動を認めず、組合活動をすればその一日につき賃金を二五分の一控除するとの方針を建前としたが、実際の取扱いは控訴人各支部毎の適宜の処理に任された。
(協定失効後の大阪支部の取扱い)
協会本部の右通達に基づく大阪支部と分会(組合)との協議において、分会側は、当初に比して待機時間が減少した事実に照らし全額保障が廃止されることはやむを得ないとしたが、就業規則二三条、附属規定七条を根拠に、分会も組合欠勤につき届出をなしている以上、大阪支部において配置の便宜が計れず待機中の組合活動として承認しなかつたからといつて二五分の一カツトをすることは、一般の届出欠勤が五〇分の一カツトであるのに比し、組合活動を理由に不利益な取扱いをなすもので不当労働行為に該当するから、就業規則に則して両者を同等に取扱えと主張し、大阪支部はこれに理論的に反論することができなかつたので、前記通達にかかわらず分会届出の組合欠勤について配置の便宜がはかれない場合には五〇分の一カツトをする取扱いとなつた。かくして大阪支部においては、昭和三六年末以降分会の届出に対し、配置の便宜がはかれる場合とか、作業計画上必ずしも支障がないわけではないが、団体交渉、中央経営協議会出席等一定のものについては待機扱いとして賃金を全額保障したが、その他の一般の組合欠勤については、闘争期間中(協会がスト権確立を知つた時から妥結時まで)は二五分の一カツト、配置の便宜がはかれない場合には五〇分の一カツトとする取扱いをすることが多かつたものの、業務繁忙のため就労命令を出しても分会側が組合活動は分会独自の判断でなしうるとの立場からこれを拒否して組合欠勤に及んだときは就業拒否として二五分の一カツトをしたこともあり、また逆に闘争期間中であつても五〇分の一カツトにとどめたこともあり、全額保障したこともあつたのであつて、例外もなく一律に五〇分の一カツトをしていたわけではなかつた。(なおこの点に関し被控訴人らは、配置の便宜がはかれるときはノーカツト、はかれないときは五〇分の一カツト、闘争中は二五分の一カツトという明確な基準により例外なく取扱われた旨主張するが、しかく認定できる的確な証拠はない。)。
(昭和三五年九月以降の協会他支部の取扱い)
前記協定の失効後、東京支部、横浜支部等では前記通達の趣旨どおり、協会が待機扱いとしたもの以外の組合欠勤については二五分の一カツトが実施されたが、神戸、大阪両支部では五〇分の一カツトとされていることの多いことが判明し、横浜支部においても組合側から神戸、大阪と同様に扱えとの申入れがあり、前同様の理由で協会はこれを受け容れたが、その際組合欠勤を就業規則上の一般届出欠勤と同率カツトに取扱う以上、同規則(昭和四四年九月一六日改正前のもの)三六条二号「家事の都合その他の事由で欠勤がその連続すると数回に亘るとを問わず、最近六か月を通じ三〇日以上に及んだときは休職を命ずることがある。」との休職条項の適用についても一般届出欠勤と同様に取扱い、組合欠勤を休職条項の適用対象とすることを組合に知らせたうえで、昭和三六年一二月一日、一旦実施した二五分の一カツトを昭和三六年四月に遡及して五〇分の一カツトに変更した。
(倉石事件)
協会は、横浜支部の京浜港検数員労働組合委員長倉石善敬が組合用務で欠勤が続いたことから昭和三七年九月一〇日同人に休職条項を適用して、休職を発令し、その後解雇したが、この問題は労使双方が全国レベルの問題と認識し、協会中央の団体交渉でも取上げられたが決着がつかず、同組合側は神奈川地労委へ提訴するとともに横浜地方裁判所に地位保全仮処分の申請をした。昭和四一年三月一六日同裁判所は倉石の就業時間中の組合活動に対しては休職条項の適用がないとして倉石勝訴の判決を言渡したが、協会側が東京高等裁判所に控訴して同裁判所で和解が成立し、その後労使間で昭和四二年一一月四日覚書が作成され、その第二項は「組合(京浜港検数員労働組合)は将来その組合員又は組合員が組合業務を行うにあたつては再び倉石善敬、高橋秀法の場合のような休職発令(就業規則三六条二号)の事態が発生しないよう留意するとともに協会は右につき組合との連絡を密にすることにより休職事態発生の防止に協力する。」というものであつたが、協会はこれにより組合欠勤も休職条項の対象とすることを組合に認めさせたことになるものと理解しその旨同月八日付で各支部長に通知した。
(<F><2>要求)
倉石事件の解決については組合側では倉石の復職を勝取つたことを評価する反面で、組合活動日は労働対象日から除外すべきであるから、組合欠勤に対しては労働対象日に欠勤したことによる休職条項の適用はないことを明確にすべきであるとの意見が強く、翌四三年春闘要求で<F><2>として「組合活動を理由に休職処分にしないこと」との要求を掲げたが、協会側は<F><2>要求は良いとこ取りの勝手な主張であり、組合活動日を労働対象日から外すのであれば、賃金は支給されない筈であるし、一般の届出欠勤と同率の五〇分の一カツトにとどめよというのであれば倉石和解覚書のとおり休職条項の適用を甘受すべきであるとして、双方対立のまま昭和四三年春闘は終結し、翌四四年春闘で組合側から引続き<F><2>要求が提出されたが、協会側では大阪地労委勧告どおり労組法七条三項の経費援助の枠外のものを全て整理する方針で、後記のとおりノーワーク・ノーペイの原則を掲げて徹休カツトの提案を出している状況であつて、右四四年春闘でも労使の合意に達しなかつた。そこでその頃協会部内では休職条項の適用につき組合側の合意が得られぬまま賃金半分保障(五〇分の一カツト)とする取扱いを継続すべきではなく、混乱の基である就業規則の規定を改訂する方針を決定した。
(神戸支部の二五分の一カツト)
昭和四三年春闘で<F><2>要求の交渉が物別れに終つた後、神戸支部で労使の対立が激化し、神戸支部は協会本部の考えを先取りして、休職条項の適用がないのであれば二五分の一カツトとする旨通告し同四四年一月一七日からこれを実施する挙に出たが、<F><2>要求は四四年春斗中央交渉の議題となることが予定されている案件であるから、中央交渉の結着がつくまで二五分の一カツトは五〇分の一カツトに修復することになり、四四年春闘終了後引続き協議する旨の議事確認を行なつたが、神戸支部における右交渉の経緯から組合欠勤の問題は全国的に統一して取扱うべき問題であることが労使双方に認識されるに至つた。
(徹休カツト)
待機時間の減少から賃金体系の見直しの必要が生じ、昭和三九年春労使で賃金協定の改訂作業に入り、同四二年六月一日成立の賃金協定でその作業を了したが、この中にも不就労時間に対する賃金保障規定が残つていたので、控訴人はノーワーク・ノーペイの原則をかざして、同四四年春闘で徹夜休日(徹夜作業の翌日の休日)の賃金を保障しない(これを徹休カツトという。)旨組合側に提案し、交渉の結果同年六月二九日組合が譲歩して四四年度賃金協定書が成立し、その一六条一項で「徹夜休日・休息の休務に対しては、その時間についての基礎時給を控除する。」と規定し、一般組合員を含む全組合員の徹休カツトが実施されるに至つた。
(就業規則の改訂)
協会は各支部の組合との間の組合欠勤についての解釈の相違は就業規則二三条の条文に由来するものと考えてこれを改訂することを決め、つとに組合側からの申入書に「勤務に支障を来たす組合活動は原則として就業時間外に行うものとする。」との方針が記載してあつたことから、この表現を使用して、組合運動を勤務時間外に行う以上、組合欠勤は労働対象日から除外し、休職条項の適用対象とはしないが、その反面労働対象日ではないのであるから賃金の支給はないとの考え方を打ち出し、前記大阪地労委勧告以来の懸案であるノーワーク・ノーペイの原則をめぐる経費援助問題の決着をつけるべく昭和四四年八月一二日、神戸支部の組合に対し「組合欠勤に対して届出欠勤扱の五〇分の一賃金保障は今後これを行わない」「組合欠勤の取扱いは労組法七条三項の精神を尊重する立場で実施する」旨通知したのを皮切りに、同月一四日の中央経営協議会でも「<F><2>要求を受諾するについて就業規則二三条の改訂を行う。組合活動の取扱いは労組法の精神によつて改訂し、組合欠勤は労働対象日から除外するので欠勤扱いとせず、休職条項の適用対象とはしないが、賃金は支給しない。」旨提案し、同年九月一六日改訂手続を了した。これに対し組合側は前記徹休カツトを呑んだ経過もあつて、同年一〇月一七日の中央交渉において一般届出休務との差別や休職の適用に関し念を押す質疑応答がなされ、その後各支部から反対意見書が提出されはしたが、それ以上に団体交渉の申入れや斗争もなく、昭和四五年の春闘要求書(被控訴人らの属する分会も連署している。)から従前あつた<F><2>要求が姿を消した(右認定に反する被控訴人後藤、同北戸の各供述及びこれにより成立の認められる甲第八八、第八九号証の各一・二は前掲採用証拠に比照して措信しえず、また成立に争いのない甲第八号証は、当審証人岸本平八の証言及び当審における被控訴人北戸義信の供述によつて、昭和四四年八月当時大阪で休職条項に該当する者が二名あり、組合からその点の問合せが大阪支部に対してなされたことに対し、回答されたものであつて、当時就業規則改訂前であつたから、旧規定に基づき協会が回答したものと認められるから、右認定の妨げとならず、他に右認定を覆すに足る証拠はない。)
(改訂後の組合欠勤の頻度)
就業規則改訂に伴ない昭和四四年一二月一一日から全国的に組合欠勤に対する二五分の一カツトが始まつたが、これに対する組合側の団体交渉の申入れ等の強力な抗議はなく、逆に組合欠勤に対する休職条項の適用がなくなつたことからその頻度が増加し、被控訴人後藤(分会長)、同北戸(書記長)両名を例にとれば、その組合欠勤日数は昭和四五年においては別表記載のとおりである。
(訴訟提起)
昭和四五年以降の一般の組合欠勤についての二五分の一カツトを不満として、五〇分の一カツトに相当する賃金の支払を求めて協会に対して訴訟を提起したのは、大阪分会の被控訴人らと神戸支部の組合員の一部らだけである。
四 以上認定の事実に徴して、いわゆる組合欠勤に対する賃金カツトの実施状況の経過をみると、右賃金カツトのあり方は、検数業務本来の特殊性、検数業務の近代化ないし合理化の進行状況及び労使双方とりわけ使用者側の組合に対する経費援助についての認識の度合等の諸事情によつて規定され、これらの事情の変化に伴つて右賃金カツトの実施状況が変せんをたどつたものということができる。すなわち、前判示のとおりの業務の不規則性及び業務需要の波動性等を内容とする検数業務の特殊性のため、検数業務に従事する労働者の組合活動には特有の障害事情があり、これに対して労使双方とも格別の配慮を余儀なくされていたところ、右配慮においては、昭和三〇年代前半の時期までは、いわゆる待機人員、待機時間の余裕と協会側の組合に対する便宜供与についての不徹底な認識とが相まつて、労働協約で定められた特定の組合活動だけに限らず、一般の組合活動に対しても組合員を待機扱いにしてその賃金をカツトしない取扱いをする便宜的措置となつて現われていたものが、前記昭和三五年七月になされた地労委の勧告を契機として協会側の組合に対する経費援助の問題についての理解、認識が深化し、他方、この間に検数業務の合理化、近代化に伴う待機人員待機時間の減少という背景事情の変化がみられたため、協会側は、従前の無原則化した便宜的な扱いを改め、一般の組合欠勤については二五分の一カツトを行つてノーワーク・ノーペイの原則を徹底した労使関係を樹立する方針を固め、これが前判示のような組合に対する同年八月の労働協約の破棄通告、同年九月の新労働協約案の提示や下部の各支部に対する同年一一月の賃金カツト取扱基準通達として現われたものと認められる。ただ、協会側が樹立を企図した新しい労使関係が組合及び各個の組合員の経済的条件に対する大巾な不利益変更となるため、組合側の強い抵抗を受けて一気に協会の意図どおりには実現せず、両者の現実的に妥協した過渡的状況として、前判示のような同年末以降の賃金カツトの取扱いとなつたのであるが、右取扱いが必ずしも明確な基準の下に統一的に行われたものでないことは、前記のとおり協会内の各支部で扱いを異にしたり、同一支部内でも大阪支部におけるように五〇分の一及び二五分の一の各カツト率の適用場面の予定があつたとはいえ、右予定に反し業務繁忙を理由に就業を命ぜられたのにこれを無視して組合欠勤に及んだ場合には闘争中でなくとも二五分の一カツトをなしたこともあり、闘争中であつても全額保障したことも、五〇分の一カツトにとどめたこともあつたことにより明らかであつて、このことは、右取扱いがその時期、その場所における労使関係の具体的な事情やその背景をなす執務環境の変化に応じて変更されるものであることを考慮に入れてなされた過渡的取扱いとして、かなり便宜的、流動的なものであつたことを裏付けるものというべきであり、そうすると右取扱いをもつて既に慣行と評価しうるほどに固定化していたものとみることは困難である。仮に慣行と評価しうるとしても、前判示のとおり地労委の勧告を受けて以来ノーワーク・ノーペイの原則の徹底化を企図していた協会としては、過渡的取扱いとして暫定的に右慣行に従つて個別的労働関係を処理する意思を有していたものとみられることは否定できないとしても、協会がそれ以上に右慣行を固定的に受け取り、懸案の組合に対する経費援助問題を解決した後の段階においても、右慣行に従う意思を有していたものとみることはできない。このことは、前判示の組合欠勤についての五〇分の一カツトの扱いが協会の各支部のうち大阪支部等の一部の支部において不規則に実施されていたことにつき、これが組合に対する協会の当面の妥協的措置として、局所的、暫定的なものとみられることに加えて、協会が昭和四四年一〇月一六日から改訂就業規則を適用して懸案の右二五分の一カツトの扱いを協会の各支部を通じて実現したが、それまでの間においても五〇分の一カツトの扱いと密接な関係のあるいわゆる<F><2>問題について組合側と交渉をして、組合に対する経費援助の問題の核心をなす組合欠勤についての五〇分の一カツトの扱いに対する批判的態度を持ち続けていたことからも窺うことができる。
そうすると、五〇分の一カツトの労働慣行の存在を前提として、被控訴人らと協会との間に被控訴人ら主張の内容の労働契約が成立した旨をいう被控訴人の主張は、認められない。
五 被控訴人らは検数業務の特殊性(不規則性ないし需要の波動性等)から就業時間中の組合活動に対する賃金保障が不可欠である旨主張するところ、原審証人森本昇、同河合仁の各証言と弁論の全趣旨によれば、協会の検数業務は海上作業と陸上作業に分れ、就業時間帯としては日中作業、半徹夜作業、徹夜作業があるが、陸上作業は日中作業を原則とし、徹夜作業は稀であり、海上作業には被控訴人ら主張のような面もあるが、昭和四〇年以降の作業の近代化により、徹夜作業も減少の傾向にあり、日中作業で終了する船舶も増加しており、ベテランの配置係をもつてすれば、分会からの所定労働時間外に組合活動を行なう旨の申入れに充分対応しうることが認められ、この事実によれば、被控訴人らの主張する海上作業の特殊性から直ちに就業時間中の組合活動が不可欠であるということはできない。(一定の組合活動については就業時間中の組合活動を承認していることは前判示のとおりである。)
六 また被控訴人らは検数労務者の賃金が他産業同規模企業と比較して極めて低い水準にあるから賃金カツトは許されない旨主張する点については、主張自体首肯しがたいものであるうえに、被控訴人らの賃金が極端な低賃金であることを認めるに足る的確な証拠はないから、右主張は、採用できない。
七 被控訴人らは、一般の届出休務が就業規則上五〇分の一カツトにとどめられているのに対し、組合欠勤は同様に事前の届出をなしているにもかかわらず二五分の一カツトにするのは不当である旨主張するが、前判示のとおり組合欠勤については休職条項の適用がないのに対し一般届出休務は休職条項の適用対象となるのであつて、このような制度の趣旨を異にする取扱をもつて組合活動に対する不利益な取扱いということはできないから、右主張は失当である。
八 しかして、被控訴人らが従来通りの賃金保障を請求しうる法的根拠は労働契約上の請求権にあることは被控訴人らの自認するとおりであるところ、右にみたとおり被控訴人らと協会との間に被控訴人ら主張のような労働契約が成立したことないしは成立したと同様に扱うべきことは、肯認できないから、その余の判断に及ぶまでもなく被控訴人らの本訴請求は理由のないことが明らかであつて、いずれも失当として棄却すべきものである。
九 よつてこれと結論を異にする原判決を取消し、被控訴人らの本訴請求をいずれも棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 朝田孝 井上清 渡邊雅文)
別紙第一
当審における控訴人の主張
第一事実経過について
一 五〇分の一カツトを実施するに至る経緯
原審で主張した経緯により、昭和三五年八月三一日に昭和三三年九月二五日付協定(「就業時間中の組合活動に関する取扱」)の破棄を通告した控訴人(以下協会という。)は、全組合に対し、組合活動は就業時間外に行うことを原則とし、一定の範囲で所定の手続(届出)を経た組合活動による欠勤(以下組合欠勤という。)は、就業規則三六条(休職条項)二号にいう欠勤扱いにはしないが賃金は保障せず二五分の一カツトとすることを骨子とする代案を提示した。しかるに組合側はこれを拒否したため、新協定が成立しないまま右協定は昭和三五年一一月二九日限りで失効し無協約状態となつた。
そこで協会は、以後の組合欠勤については右代案どおり取扱うこととして各支部に指示した。その結果、協会の東京、横浜等の支部(以下協会を冠することを省略する。)では指示どおり組合欠勤につき二五分の一カツトが実施されたが、神戸、大阪両支部では組合からの、組合欠勤を就業規則附属規定七条にいう一般の届出欠勤と同様に取扱えという強硬な要求により、右指示どおりには実施されず昭和三六年末から五〇分の一カツトとされた。右組合(全港湾関西地本築港支部全日検分会、以下分会ともいう)の要求は、組合欠勤という集団的労使関係の問題を、就業規則附属規定の欠勤者の賃金控除という個別的労使関係の問題と同一視する誤つた要求であつたが、当時大阪支部ではこのように反論をすることができなかつた結果、五〇分の一カツトの扱いとなつたものである。
以上のとおり、五〇分の一カツトを実施したのは、分会の右のような誤つた要求に対し、大阪支部が法律知識が十分でないまま労使の力関係からやむなく休職条項の適用を前提として実施せざるを得なくなつたものであつて、原判決が推認するように五〇分の一カツトを最も合理的なものと判断したからではない。
二 五〇分の一カツトのその後の継続
右のとおり大阪支部では昭和三六年末から組合欠勤について五〇分の一カツト扱いをすることになつたが、その際協会は分会に対して分会の要求の根拠が就業規則及びその附属規定にある以上、組合欠勤は就業規則上の休職条項の適用の対象となることを明らかにしていた。
そこで、昭和三七年九月横浜支部において、右見解に基づき倉石委員長に休職発令(その後休職期間満了により解雇)をしたところ、同支部の組合はこれに反対し、裁判闘(以下「闘」を「斗」と略す)争を展開した。この争いは、組合欠勤につき五〇分の一カツトにする際の確認(組合欠勤が休職対象となること)を反古にし五〇分の一カツト取扱(二五分の一カツトからみれば賃金半額保障)の良いとこ取りの主張をする組合と、組合欠勤を就業規則附属規定に則り五〇分の一カツトとする以上、これが就業規則上の休職条項の適用対象となると主張する協会の対立であつたが、結局昭和四二年一一月東京高等裁判所で和解が成立し、その直後に取交した覚書で、組合は組合欠勤が休職条項の適用対象たる欠勤であることを認めた。
ところが組合は倉石事件が醒めやらぬ昭和四三年春斗に際し、右覚書による確認にも拘らずいわゆる<F><2>要求(組合活動を理由に休職処分にしないこと)として再び組合欠勤につき休職条項の適用排除を要求し、翌四四年春斗でも<F><2>要求を提出した。当時組合欠勤は増大する傾向にあつたうえ、協会としては、徹夜休日の取扱いにつきノーワーク・ノーベイの原則から賃金を原則として保障しないとの提案を組合にしていた(その後合意が成立した。)関係もあつて、組合欠勤に対する休職条項の適用につき組合と合意が得られないまま賃金を五〇分の一カツト(半額保障)とする取扱いをこれ以上継続すべきでないとの方針を決定した。そこで、協会はその後、組合が五〇分の一カツトを要求する根拠であつた就業規則の規定を改訂して、組合欠勤につき二五分の一カツトとする反面、組合の<F><2>要求どおり休職条項の適用対象としないことを明確にするため、昭和四四年八月正式に就業規則改訂案を組合に提示した。
以上のとおり、五〇分の一カツトの取扱いについては、その結果だけを見れば約八年間継続したかに見えるが、その実施直後から休職条項の適用をめぐつて労使間に意見が対立したままであつたのであり、右取扱いが原判決のいうような労使間に何らの疑義も異議もなく、当然のこととして実施されてきたというものではない。
三 労使慣行による五〇分の一カツトを内容とする労働契約の成否について
右のとおり五〇分の一カツトの取扱いには、明確な目的意思があつたものでもなく、この取扱いについて当事者間に何らの疑義も異議もなかつたものでもない。そうとすれば、右取扱いは単に一定の事実状態が反復又は継続していたものにすぎないのであるから、それが直ちに労働契約の内容となるものではないし、法的拘束性のある労使慣行(事実たる慣習)として黙示的に労働契約の内容になつたと解することもできない。
組合欠勤に対する取扱いの問題の本質は、集団的労使関係の場における経費援助の問題にある。この問題は、昭和三三年九月の「就業時間中の組合活動に関する取扱」という協会と組合の労働協約という集団的労使関係上のものとして始まり、その後の変遷も協会の組合に対する経費援助という集団的労使関係の場における便宜供与の歴史的変遷であつた。更に、組合欠勤の取扱い問題は、休職条項の適用の面をも含めてこれを見れば、組合が組合欠勤につき就業規則上の一般の届出欠勤よりも有利な取扱いを求めていたものであることが明らかであり、集団的労使関係の問題であることは否定しうべくもない。
仮に、組合欠勤に対する五〇分の一カツトの取扱いが反復継続した事実をもつて、それを労使慣行といい、労働契約の内容に転化するとしても、それは個々の労働者の同意がなければ変更できないという程の法的拘束力の強い契約内容となるものではない。五〇分の一カツトの取扱いは協会の組合に対する経費援助の結果として個々の労働者に反射的利益を与えるにすぎないから、その淵源である経費援助に関する労働協約、労使慣行の推移に左右されるのは当然である。経費援助に関する明文の労働協約ですら労働組合法一五条の規定に従い当事者の解約予告により適法に解約、変更しうるのであるから、況んや不文の労使慣行において同様の変更が制限されるはずもない。「組合活動はすべて組合の経費で且つ組合の場所(領域)で」という思想は時代の趨勢であり、組合欠勤取扱い問題は集団的労使関係の場の問題としてこうした時代の流れにのつた変遷を続けてきたものであつて、使用者の労働組合法一五条に従つた解約手続により当然変更可能なものである。
四 就業規則の改訂に対する各組合の態度
組合共斗会議は、協会の前記就業規則改訂案提示に対し、その直前に一般組合員全員に影響のある徹休カツトを呑んだこともあつて、二五分の一カツト反対に固執してみても、それは組合役員及び組合活動に従事した一部の組合員のみが利益を享受するにすぎず、一般組合員との関係で組織運営上好ましくないとの判断から、積極的に異議を申出ることなく事実上了解した。
これは原審で主張した変更の合理性を組合自身も認識・了解したことの証左でもあるが、その反面賃金五〇分の一カツトの取扱い(経費援助という労使慣行の反射的利益)は、その利益を享受する個々の組合員の同意がなければ変更できないという意味での労働契約の内容とはなつていなかつたことの証左である。
二五分の一カツトへの改訂につき個々の組合員の同意を要するものであつたとすれば、組合共斗会議としては、右改訂につき組合及び組合員の同意を得ないまま労働契約の内容を変更したものであるとして積極的な反対運動等を展開して然るべきであるが、そのような運動もなかつたし、当時全港湾関西地本築港支部全日検分会(以下大阪の分会という。)も参加していた組合共斗会議も他の案件については継続交渉を要求していたが、改訂案に対しては継続交渉を要求することなく、事実上了解する形となつていた。そして、その後大阪、神戸の両支部を除く他支部では現在まで二五分の一カツトが何ら異議なく実施されている。大阪の分会は組合欠勤が賃金二五分の一カツトの対象になることを当然の前提として、費用の軽減になる大阪地域交渉の必要性を強調し、更には労使双方の便益に係る団体交渉の出席者数を中央交渉参加人員(三名)よりも拡大したうえその人員に対する賃金保障を強硬に要求してきたのである。
第二被控訴人らの主張に対する反論
一 被控訴人らは、昭和四四年八月一四日の中央経営協議会(以下中央経協という。)で就業規則の改正提案はなかつたから、その後の交渉申入れの議題に就業規則改正問題を提示しなかつたのであると主張する。
しかし右主張は、原審における被控訴人らの主張及び当審における被控訴人後藤英二の同旨の供述以前の被控訴人らの主張と矛盾する。すなわち、被控訴人北戸義信は原審において「右中央経協で改正提案があつた。」と供述し、別件の神戸支部事件においては後藤自身が「二五分の一の減額にしたいとこういう表明があつた。」と証言しているのである。協会は、右中央経協に先立つ同月一二日には神戸支部において協会の考え方である「組合活動に対して届出欠勤扱いの五〇分の一賃金保障は今後行わない。あくまでも労組法七条三項の精神を尊重する立場で実施する。」と申入れているのであるから、同月一四日の中央経協で協会の方針が説明されない筈がないし、同月一八日付の神戸支部の組合の「検数労働ニユース」には「先日の中央交渉でも組合活動について就業規則を変えるといつています。」と記載されており、右にいう中央交渉が八月一四日の中央経協をさすことは明らかである。
二 被控訴人らは、大阪支部が昭和四四年八月一六日付「通知」(甲第八号証)で大阪の分会に対し組合欠勤につき休職条項を適用すると通知していることをもつて、右中央経協で休職条項不適用を前提とする二五分の一カツトを内容とする就業規則改正提案がなされたことと矛盾すると主張する。
しかし、右通知は、昭和四四年八月段階で、大阪の分会の富田、長谷川両執行委員の組合欠勤が増大し、休職条項適用が問題となつており、これに関する右分会からの問合せに対して大阪支部が就業規則が改正されるまでは両名に対し休職適用があることを明確にしたものにすぎないから、改正提案がなされたことと矛盾しないのである。
三 被控訴人らは神戸支部の組合において、組合欠勤二五分の一カツトの就業規則改訂に反対してスト権が確立されており、組合として就業規則の改正を事実上了解していた訳ではないと主張する。
しかし、右スト権確立は本件組合欠勤二五分の一カツト反対のためのものではない。従前から神戸支部においては労使の対立が激しく、昭和四四年春斗後神戸支部は日常の具体的な組合活動を現実面で規制しようとするようになり組合はこれに対し反発対抗していたのであり、こうした中で同年八月二三日神戸の組合でスト権が集約されたのであるが、組合員数が多く、職場が広域にわたる神戸の組合はスト権が集約される少なくとも二週間以上前(八月九日頃)に要求項目を掲げて投票手続に入つているから、八月一二日や一四日の協会申入れに対するものではないことが明らかである。スト通告文にある「組合活動の制限反対」というのは神戸で組合活動に対し現実面で具体的に攻撃を受けていたことに対する反発なのである。
その後、中央経協、中央団交を経て協会の姿勢が明らかになるにつれ、神戸支部での紛争は平静化し、ストライキは実行されなかつた。結局、就業規則改正に対しては、神戸支部では定期大会で新執行部が成立した後の一〇月七日付の意見書でも反対意見は記載されず、何らの異議も提出されなかつた。なお神戸支部では昭和四五年二月に「労働組合運動の取扱い」につき労使双方が議事確認をしているが、これは神戸の組合の執行委員長が交替したことに伴い、組合欠勤の取扱いについての変更経過及び理由を新執行委員長に確認的に明らかにしたものであり、この直後神戸の組合から二五分の一カツト反対等の抗議あるいは交渉の申入れがなされた事実はない。
四 被控訴人らは、全日検共斗会議は連絡機関にすぎず、その決定、決議の拘束力は大阪の分会には及ばないと主張するようである。
しかし、共斗会議は、全国各組合から交渉権を委任されて協会と中央交渉を行ない、終結段階では妥結権も与えられていたのであるから、中央交渉の議題とされ協議を尽された組合欠勤取扱い問題については、共斗会議の決定若しくは態度に大阪の分会も拘束されるものである。
全国的単一組織である全日本検数労働組合が解散し、協会各支部毎の独立した組合が結成され、協会に対する要求は各組合毎に提出されていたが、基本的な労働条件については中央で統一交渉が行われ、中央交渉の前後に組合連絡会議が結成されていたが、このような一時的組織では組合の足並みが揃わず、強固な団結力を誇示できないことから、昭和三九年一〇月、全日検全国労組共斗会議が結成され、それにより労働条件の全国統一と団結力の維持強化を図ることになつた。
共斗会議は、各組合から選出される幹事により構成される幹事会を持つ中央執行体制と財政を確立するとともに、全国機関誌を発行した。協会に対する要求は、各組合ごとに要求を堀起こし検討した後、中央幹事会に提出され、そこで検討調整の結果、統一要求書として共斗会議名で協会に提出された。全国的に統一した取扱いが要請される基本的な労働条件については、統一要求に従つて協会中央と共斗会議の中央団体交渉、中央経営協議会で協議、交渉された。協会各支部において支部交渉も行われるが、これは中央協定の実施細目事項、あるいは各支部毎に提出される職場細目要求に基づく支部独自の職場運営問題に限られており、各組合の独自性は限られていた。
第三控訴人の予備的主張
一 仮に控訴人の主張が全て容れられず、五〇分の一カツトの取扱いが労使慣行として黙示的に協会と個々の従業員(組合員)との間の労働契約の内容となつていたとしても、その拘束力は就業規則の変更前、すなわち昭和四四年一〇月一六日以前に在籍する労働者に限られるのは当然であつて、同日以降の雇入労働者に対しては労使慣行は存在せず、その結果五〇分の一カツトを内容とする労働契約も成立していないのであるから、新就業規則により二五分の一カツトの取扱いをすることは何ら違法ではない。
二 従つて、昭和四四年一〇月一六日以降に控訴人に雇入れられた被控訴人深村宏(昭和四五年四月一日雇入)、同藤後博己(同年七月一六日雇入)、同中川勝太郎(同四六年九月一日雇入)の三名に対する賃金二五分の一カツトは適法、正当であつて、控訴人には右被控訴人ら主張の賃金の支払義務はない。
別紙第二
当審における被控訴人らの主張
第一時間内組合活動の賃金取扱の歴史と慣行の成立
一 原審で主張したとおり、就業時間中の組合活動について、五〇分の一カツトに止めるという扱いは、実態として一貫して約八年間に及んで行われてきたものである。これが就業規則ないし賃金協定上の届出欠勤として扱われたということではないが、賃金計算上は、平常時については五〇分の一という右届出欠勤と同じカツト率で行うとの点は労使双方に全く異論がなく、明確に認識、受容されていたものであつて、控訴人主張の如く、横浜、神戸両支部においてこれに反して、二五分の一カツトとしたものについて五〇分の一カツトへの修復措置まで取られていることが示すように労使双方において法的確信によつて支えられてきたものである。右両支部において明示の合意ともいえるのであつて、協会本部の意思も五〇分の一カツトを承認していたことの証左である。これは賃金という労働条件の基本を定めるものとして、各労働者と協会との間の労働契約の内容となつていたものであつて、就業規則の一方的変更により個別労働者の合意なしには変更できないものである。
二 協会は、五〇分の一カツトの取扱いは就業時間中の組合活動による欠勤につき、就業規則三六条二号の休職条項の適用の有無について意見が対立したままであつて、協会がこれを最も合理的なものと判断し、明確な目的意思をもつて実施したものでもなければ、労使間に何らの疑義も異議もなく当然のこととして実施されてきたものでもないと主張する。しかしながら、組合欠勤について賃金の五〇分の一をカツトするとの扱いは就業規則上の届出欠勤とは無関係であり休職条項の適用の対象ではない。五〇分の一カツトは当初の全額保障の扱いに由来するもので就業規則の埒外の別個の制度であり、組合欠勤は斗争期間中は二五分の一カツトとされる点からも届出欠勤と取扱いが全く異なるのであつて、組合欠勤に届出欠勤と同じ休職条項を適用すべきいわれは全くなく、現に協会がこれを発動したのは倉石事件のみである。休職条項の適用の有無に関する協会と組合の認識の不一致は五〇分の一カツトの慣行の成否に何ら影響するものではない。
三 倉石事件の地位保全仮処分判決は、倉石委員長の就業時間中の組合活動に対し休職条項の適用がないことを判示し、同判決は、昭和三三年九月二五日付協定(「就業時間中の組合活動に関する取扱」)失効後、労使間の関心事は組合欠勤に対する賃金の保障をいかなる程度にみるかという点にあり、協会側は一般の届出欠勤の場合の賃金カツト率との関係を比較考慮して組合側の要求どおり結局は五〇分の一カツトに止めることになつたとみるべきで、組合欠勤を欠勤とせぬ扱いも、労働組合運動の過程において組合が獲得した権利であつて、そこには使用者側の支配介入の意思などみるべくもないのであるから、かような取扱い慣行をもつて不当労働行為の疑いありなどといえないことは明らかであるとしている。
倉石事件の和解解決の際、協会側は休職条項の適用を主張し、横浜の組合はこれを排除すべきことを唱えて、結局休職条項の適用の有無について明確な結論を出さなかつたことは事実であり、かつ右事件解決後、全検共斗会議として組合休務につき、休職条項の適用がないことを明確にすることを求めたのも事実である。しかし、これらのことが五〇分の一カツトの慣行の成立をゆるがすものでないことは、同事件発生後においても、大阪、横浜及び全国の支部において五〇分の一カツトが一貫して行われていたことが何よりの証左である。
四 昭和四二年に倉石事件につき、横浜の組合が、覚書を結ぶにあたり、休職条項の扱いについては労使間では結論を出さないでおこうとの合意のもとに控訴人主張の覚書が作成されたのであつて、五〇分の一カツトの扱い自体には何の変更もなかつた。まして大阪支部においては組合欠勤につき休職条項を適用した事態は現実に生起しておらず、現に被控訴人北戸は二度にわたり六か月間に三〇日以上の組合欠勤をしているが、休職条項に該当するといつた扱いは受けなかつた。
また協会は<F><2>要求が、組合欠勤に休職条項の適用されることを前提としたものであり且つ和解覚書に反すると主張するもののようであるが、組合がより有利な条件を求めて要求を提出することは当然であつてこれによつて五〇分の一カツトの取扱いを否認するものではない。
少なくとも大阪支部においては、就業時間中の組合活動の賃金カツトについて配置の便宜が計れない場合において、斗争期間中は二五分の一カツト、平常時には五〇分の一カツトとする旨の取扱いが、昭和四四年一一月まで約八年間にわたり続いてきたものであつて、この慣行が労使双方にとつて疑いのないものとして明瞭に認識されてきたことは明らかである。
第二本件二五分の一カツトの一方的強行の経過
一 協会は、昭和四四年八月、就業時間中の組合活動を締出し、月額賃金の二五分の一をカツトする方針を固め、同月一四日行われた中央経協の席上、議事の最後に組合活動の問題について就業規則改訂を考えている旨を組合側にさりげなく伝え、反対の予想される具体的内容、すなわち二五分の一カツトの点は、問題の顕在化を遅らせ、円滑に改訂を進めるために各支部毎に順次時期を離して説明会をもつて伝えた。右中央経協の二日前である八月一二日神戸支部、八月末頃に名古屋支部、大阪支部においては就業規則が改訂された九月一六日から一か月も過ぎた一〇月一五日に至り初めてその中味が明らかにされた。
二 各支部の組合は、従来の五〇分の一カツトから二五分の一カツトにすることは組合活動を財政面から締上げて制限することを狙つたものであることを見抜き、就業規則改訂反対の動きが急速に広がつた。
最初に改訂内容の説明を受けた神戸支部の組合においては、八月一八日、二二日、二三日付の組合ビラ(検数労働ニユース)で慣行の破棄に反対であることを明らかにし、続いて就業規則改訂による組合活動の規制反対を掲げてスト権の確立を呼びかけてスト権を確立した。このほか東京支部の組合では就業規則改悪反対の署名活動が取組まれ、名古屋、横浜、大阪、九州、神戸各支部の組合で就業規則改悪に反対である旨の見解が発表された。なお神戸支部の組合の意見書は他支部の組合の意見書と大体において同一であるが、前川委員長の背信的姿勢により昭和四四年九月一六日改正の就業規則二七条(組合運動、政治運動、示威運動、集会その他協会業務以外の用務は勤務時間外に行なうものとする。)に対する批判部分を脱落させて提出されている。
三 原審においては、被控訴人らも昭和四四年八月一四日に開催された中央経協において勤務時間中の組合活動について二五分の一カツトとする就業規則の内容説明がなされたものと誤解していたからそのように主張したが、その後記録を精査した結果八月一四日には二五分の一カツトという具体的内容の説明はなされていないことが判明したので、当審において、これが全検共斗会議に初めて提案されたのは同年一〇月一七日であると訂正した。
右中央経協の二日後である八月一六日に、協会大阪支部長であり労務関係のベテランである大坪一正から大阪の分会に対し、組合活動による休務につき休職条項の適用がある旨の通知が出されていることは八月一四日に二五分の一カツトとし休職条項の適用をしない旨の説明がなされていないことの証左である。
四 大阪の分会は昭和四四年一〇月一一日の分会定期大会において、各種交渉は全港湾関西地本、そして築港支部の統一交渉として大阪で行なうことを決定し、これに基づき同年一一月七日分会は協会に対し全港湾関西地本築港支部の名で地域交渉に参加するよう申入れ、東京で開かれる中央交渉などには参加しないことを明らかにし、同年一一月一八日の中央交渉を最後に分会は協会中央での交渉には参加していない。
大阪支部は、地域交渉には最初三回は応じて出席したものの就業時間中の組合活動の取扱いについては九月一六日に就業規則が改訂されており、中央からの指示がないので参加できないとして交渉を拒否し、更に一一月二〇日の交渉を最後に大阪における地域交渉を拒否して出席しなくなつた。
かかる大阪支部の団交拒否により大阪の分会は交渉の場を全く失つたので、全港湾関西地本築港支部は、協会の地域交渉応諾を求めて昭和四五年四月一七日大阪港全港ストライキという史上初めて大阪港の全部の荷役をストツプさせる斗争を組んだ。然るに協会はなおも団交拒否を続けたため、分会は築港支部の名で大阪府地方労働委員会に対し大阪における団体交渉拒否の不当労働行為救済申立をした。同地労委は同年一〇月九日協会に対し団交に応じよと命じたが、協会は中央労働委員会に再審査申立をする一方、団交出席者数を制限し、その賃金支給を行わない等、分会の申入れに対して誠実な団体交渉をもとうとしなかつた。
以上のように就業時間中の組合活動の取扱いをめぐる協会の対応は不誠実の極みであるので、分会は慎重な協議の末、就業規則の変更による就業時間中の組合活動に対する五〇分の一カツトの契約内容の変更の不当を訴求する外ないと判断し、昭和四六年一一月二五日本訴提起に至つた。
協会は、昭和四五年春斗における全検共斗会議の要求書(乙第六七号証)に従来入つていた<F><2>要求が脱落していることをもつて全検共斗会議ひいては被控訴人らの所属する大阪の分会が就業規則の変更を黙認していたかの如く主張する。
しかしながら、全検共斗会議は、各港毎に組織された組合の単なる共斗組織であり、全員一致によつてのみ運営される組織であつて、共斗参加の一組合でも反対があれば、全検共斗会議の要求としては提出されないのであつて、<F><2>要求が脱落しているのは同要求が各組合の全部の一致に至らなかつたからにすぎない。
なお、右要求書に大阪の分会の名が出ているが、同分会は昭和四四年一一月以降東京での中央交渉に不参加を表明しており、翌四五年春斗においては前記のとおり大阪における交渉を求めて大阪港の全港ストライキを行なつていた頃であつて、全検共斗会議としての中央交渉には参加していなかつたものであり、要求検討にも大阪の分会の意見は反映していなかつた。従つて、大阪の分会は右要求書が仮に如何に理解されようとも就業規則の変更による契約内容の変更につき一貫して反対してきたものである。
第三就業時間中の組合活動の正当性とカツト率変更の違法性
一 一般的にいえば、就業時間中の組合活動については、如何なる範囲のものも正当であることにはならないであろう。しかしながら、次のような場合には時間内組合活動の正当性が認められるべきである。
労働者の就業時間中の労働をなす義務が労働契約から生ずるものである以上、労使間の合意(労働協約)、承諾(個別の同意)、慣行がある場合にはこれが正当化される。慣行については、労働者の組合活動の自由と使用者の企業運営上の権利(指揮命令権、施設管理権)との衡突が個別的に調整される過程の中で労使双方の暗黙の了解の上に醸成され、使用者の受忍義務が定着することにより顕現する。
次に業務に支障がない組合活動及び必要不可欠な、また緊急な組合活動は就業時間中といえども正当化される。
就業時間中の組合活動を賃金カツトすることなく認める使用者側の事情としては、組合が企業のなすべき労務管理機能の一部を代替している面を評価することにある。このような企業運営についての客観的な事情は企業による労働組合の御用組合化の政策とは別のものである。強力な組合が、殆ど組合役員の活動や執行委員会、大会の開催などについて労働協約を獲得しているのである。
二 組合欠勤における賃金カツトを一般の届出欠勤における賃金カツトと同様に取扱う根拠の一つは昭和四四年九月一六日改訂前の就業規則二三条及び付属規定七条ではあつたが、最も根本的・基本的根拠は春斗毎の賃金協定である。この協定において届出欠勤を五〇分の一カツトとすることは明確であるし、こうした協定の存在がたとえ組合活動による欠勤であつても無届でない以上は、届出欠勤として取扱われるべきであるとの法的確信を労働者側に持たせてきたし、協会側には少なくとも五〇分の一カツトにとどめねばならないとの規範意識を植えつけた。
三 就業時間中の組合活動に関する労使間の取決めや慣行が集団的労使関係に属するものであつても、当該活動に従事する組合員の賃金上の取扱いの側面をみるならば、それが個別労働契約上の性格を持つことはいうまでもない。本件賃金カツト率の変更が、不当労働行為として無効である場合はもちろん、契約内容の変更の申入れにすぎないとみる場合においても、従来どおりの賃金保障を請求できる法的根拠は労働契約上の請求権に他ならない。八年間にわたる賃金保障の取扱いは、黙示の合意的慣行として、また不文の労働協約として、黙示の労働契約の成立があつたものと評価される。
第四労働慣行と労働契約
一 慣習が労使関係におけるものである場合には、慣習の存在の認定に当つては労働者の弱い地位と使用者の経済的優位性をふまえ、団結権保障の意義や労基法二条等の労使対等決定原則などの法的要請を無視すべきではない。
本件における五〇分の一カツトは、使用者側においても、届出欠勤と同様に、労働協約や就業規則に明示された率で八年間にわたつて慣行として存在し、しかもその内容は港湾労働の実態からみても相当で合理的なものであり、破棄の理由については合理性がなく、団結弱体化の企図が明らかである以上は、労働契約の内容として認められるべきである。
二 なおこの慣行は、大阪独自のものであるが、当初のスタートからしても各港の独自性があり、また各支部の組合も別組織であること、大阪における独自の地域交渉の確立などからしても容易に、この地域的な、大阪固有の慣行を契約内容にするのは当然である。
後藤英二分会長
月
就労日数
組合欠勤(1/25カツト)
組合欠勤(賃金保障)
欠勤
各種休務権
暦日
一
五
九
六
一
一〇
三一
二
四
一三
一
一
一二
三一
三
四
一七
一
一
五
二八
四
三
二三
三
〇
二
三一
五
〇
一六
九
〇
五
三〇
六
〇
一四
一三
〇
四
三一
七
一
一九
六
〇
四
三〇
八
五
七
二
二
一五
三一
九
六
一一
一
七
六
三一
一〇
一
二〇
一
一
七
三〇
一一
三
一九
〇
一
八
三一
一二
九
一四
〇
四
三
三〇
北戸義信書記長
月
就労日数
組合欠勤(1/25カツト)
組合欠勤(賃金保障)
欠勤
各種休務権
暦日
一
四
六
七
三
一一
三一
二
一
一九
一
一
九
三一
三
〇
二一
三
〇
四
二八
四
〇
五(休職二二)
三
〇
一
三一
五
休職期間(組合専従)
六
〇
一五
一三
〇
三
三一
七
一
一七
五
〇
七
三〇
八
〇
七
〇
二
一二
三一
九
二
七
一
五
六
三一
一〇
三
一一
一
四
一一
三〇
一一
五
一八
〇
一
七
三一
一二
一二
一三
〇
〇
五
三〇